80年を経て〝エゴドキュメント〟
エゴドキュメント 日記
NHK「 新・ドキュメント 太平洋戦争」を見た。
戦後80年。
当時の日記や手記などの〝エゴドキュメント〟が紹介されていた。
その時代に綴られた兵士や市民の日記には
その時代に言えなかった人々の「本音」が綴られている。
日米英開戦と聞いて〝血湧き肉躍る〟と喜ぶ主婦の方の日記、
戦況が危機的な戦地で〝戦争は無意味なことである〟と記した兵士の手記もあった。
徐々に移ろっていく人々の思いが追体験できた。
戦時中の個人的な話が残っていくことも大事だなと思った。
少しだが知っていることを記しておこうと思う。
戦時中のエピソード
私の両親は戦前生れ。
ちょうど多感な頃に太平洋戦争が起こった。
赤ん坊でもない
だからといって大人でもない。
一番もどかしい頃に戦争が終わった。
母の戦争の頃の思い出は決まって、
焼夷弾が落とされ
家族皆で手を繋いで防空壕へ逃げようとしたとき
小さい弟がいない。
みんなで必死に探す。
後で、弟は隣の家のおばさんと手をつなぎ
ひょっこり出てきたそうだ。
母はよくおじさんに
「お前がどこかへいなくなるから写真が持ち出せなかった。」
と嫌味を言っていたが、
おじさんも「こっちも必死やから、そら逃げるよ。」
と笑っていた。
これは親戚が集まったときの
戦時中の鉄板ネタで、このエピソードで笑いが起こる。
これ以外の話はあまり聞いたことがない。
なぜあの戦争が起こったのか
誰が悪かったのか
誰が正しかったのか
なんて感想は一度も聞いたことがない。
感想らしい感想と言えば
母が呟くように
家が焼けるのなら
全員の家が焼けてほしかった。
これだけだ。
震災を経験して
この言葉だけを聞くと
すごいことを言うな、
と思って聞いていた。
この言葉の意味をなんとなく理解できたのは
私自身が阪神大震災を経験した後だ。
(以前の記事→地震の教訓…なんて無い 防災グッズはその後に必要な物)
本当に同じ地域でも1本道が違えば違う風景。
隣の県では普通に仕事をして生活をしている。
たまたまこの地域が被害にあって
私達は、たまたま生き残った。
当たり前の日常がこの周りにだけ無い。
なぜここだけ…
本当に、全員の家が焼けてしまえということではなく
なぜここだけなんだ…なぜ私だけ…という思い。
家が全焼した母はその事を言いたかったんだなと思った。
戦争でも震災でもやはり一人ひとりの受けた被害で
言いたいことも思いも違う。
その後の人生も様々だ。
どんなことでもその悲惨さは
受けた人にしか
本当の悲惨さは理解できない。
真理のその先
だが戦争が悲惨なのは、もう誰もが理解している。
戦争では何も解決できないのだ。
真理にたどり着いた後に思うのは
あの戦争そのものを検証しなければならないということだ。
二度と起きないために
開戦を回避したいと思っていた政府がなぜ戦争に踏み切ったのか。
和平へのターニングポイントはなかったのか?
それがずっと気になっていた。
80年を経て、少しづつ明らかになってきた。
今までのフィクションが混じったようなドラマではなく
その時代を生きた人の日記や肉声テープがもっと出てきてほしい。
二度と戦争が起きないために。
また同じような時代の流れが来たとしても
今度は流されないように
検証し続けないといけないと思う。